時の狭間が開く夜


 ああ、もうサイアク。
 これ以上最悪のことなんてあるわけない。


 今日は、私の誕生日だった。二十四歳のバースデー。
「店、予約入れといたから。七時に迎えに行く」
 その日の朝届いたのは、彼からのメール。おめでとうの言葉は、前と同じように直接言ってくれるんだなって、そっけないメールも別に気にしてなかった。
 彼とは、入社してからの付き合いだから、もう四年目になる。
 ちょうど三年前の誕生日に、彼から告白された。だから今日は、私の誕生日と二人が付き合い始めた日っていう二つのお祝いの日。
 一年目のプレゼントは、花束と一緒に差し出された、付き合って欲しいって言葉。
 二年目は、ピアス。三年目は誕生石のネックレス。
 受信画面もそのままに、携帯を口元に当てながら考えてた。
 今年のプレゼントは指輪がいいなぁ――なんて。
 御気楽極楽ってのは今朝の私のことだ。できることなら今朝に戻って、自分を蹴り飛ばしてやりたい。
 ほんと馬鹿。
 彼の車に乗せられてやってきたのは、二十五階建てのタワービル。最上階にあるレストランからの夜景にうっとりしながら、運ばれてくるフレンチを楽しんでた。
「最近、なかなか会えなかったよね。仕事忙しかった?」
 注がれたワインを口に運びながら、何気なく問いかけた。本当においしい料理とワインで、私、何もかもに酔ってたんだと思う。彼がその時、何となく暗い顔してることもあんまり気に留めてなかった。ただ忙しいんだろうなぁなんて。
「ああ……悪い。――なあ、あのさ……」
 歯切れの悪い口調。なんでその時気付かなかったんだろう。
「ん? なあに?」
 ただただ上機嫌で、何にも考えずに問い返したその時だった。
「あのさ……別れて欲しいんだ」
 その瞬間、何を言われたのか、全く分からなかった。
 多分端から見たら、瞬間冷凍された人みたいだったと思う。だって、さあっと冷たくなってくのが、自分でも分かったから。
 あの時、彼は何か言ってたかもしれない。あんまり覚えてないけど、他に気になる子ができた、とか、こんな日にごめん、とか。ああ、今思い出そうとすることも嫌で堪らないんだけど。
 それまで私、ほんとに浮かれてた。
 最上階まで運んでくれるエレベーターが、彼と一緒に天上まで運んでいってくれるんじゃないか、なんて、とてつもなく甘い妄想してた。
 でも。
 現実は、二十五階から一気に地上まで突き落とされてた。


 誕生日に振られるなんて、情けなさ過ぎて涙も出やしない。
 送っていくという彼の申し出を断って、こうして夜の街を歩いてる。
 ずるい、と思う。
 あんなおしゃれな店で、別れようなんて言わないで欲しい。
 なにより、なんで誕生日にそんなこと言うのよ。
 泣くことも、「どうして?!」なんて喚き散らすことも出来ないじゃない。みっともなくて。
 私に出来たのは、「どうしても?」っていう確認だけ。頷く彼に、そう、と言うことしかできなかった。なんで私、こんなに冷静に返事してるんだろうって思った。幽体離脱した人みたいに、体とは別の場所で自分を見てるみたいだった。
 一つ歳を取ったから? 大人な対応しなきゃって、周りの雰囲気に後押しされちゃった?
 ほんとにずるい。
 送るよ、なんて、どんな顔して狭い車内に二人きりになれっていうのよ。
 助手席で、めいっぱいなじってやれば良かったのかも、なんて今更ながら気付いたって遅い。とにかくあの場から逃げ出したくて、誰にも今の自分の顔を見られたくなくて、彼に背を向けて一人で歩き出してた。家まで、車飛ばして三十分もの道のりを。
 彼は追いかけてきてもくれなかった。
 ほんと馬鹿。馬鹿すぎて救いようがない。
 顔を上げれば、どこを歩いてるのかさえ、もう分からなくなってた。周りの景色が、ぼんやりと滲む。
 夜の街って嫌い。夜景はあんなに綺麗だったのに、地上に降りてしまえば、色んな汚いものが見えてしまう。
 昼間の熱を吐き出してるアスファルトの臭い。けばけばしくて、いかがわしい文字を連ねた看板。どこもかしこも汚れていて、この街に押し込まれた人達の吐き散らかした思いが、道の隅に積み上げられているような気がする。
 昼間はそんなこと思わないのに。何にも気付かずに通り過ぎてしまうのに。
 夜になると、露わになる掃き溜め。
 あちらこちらに、やり場の無い気持ちがゴミや澱みになって溜まってる。
 そんなこと、何にも気付かずにふわふわと歩いてきて、私の世界は夜になっちゃった。
 何が嫌だったんだろう。私の中の汚いところを、彼は気付いていたんだろうか。
 彼から見た私は、いつでも夜だったんだろうか。
 ちょうど、こんな風に――。
 唇を噛み締めたその時、重く沈みこんでいるような道の隅の暗がりが、動いたような気がした。
 大通りの裏手にあるこの通りには誰もいない。
 辺りは雑居ビルの背中が立ち並んでて、狭いし暗い。それでも歩けてるのは、大通りから漏れてくるネオンの明かりのおかげ。
 でも、ビルの足元にぽっかりと口を開けてるような車庫や、大きな室外機の陰に誰かがいても、きっと分からないと思う。
 猫か何かだろうって、ちょっと顔を向けてみたけど、そこには何にもいない。気のせい?
 でも、確かに動いてる。
 黒い……何か。
「な、なに?」
 足を止めてまじまじと見てしまう。だって、誰も、何も居ないのに、人の影だけがそこにあって、私の方に動いてくる!
「ひっ!」
 なにこれっ?!
 後ずさりしたら、ヒールが何かにとられた。
「きゃあっ!」
 後ろにひっくり返った拍子に、おもいっきりお尻を打った。あまりの痛さに目眩がする。その間にも、影は私の方に向かってきてる! しかもどんどん数が増えてる!!
 何の冗談だろう。何かのマジックか性質の悪い悪戯でも仕掛けられているんだろうか。
 こんなにくっきりと人の影の形をしてるのに、どうして誰も居ないの?!
 立ち上がって逃げなきゃ。でも恐くて動けない! おまけに喉がひきつったみたいになってて、声まで出ない。
 自分の声の代わりに、何か唸ってるみたいな声が聞こえる。
 なんだか、たくさんの人が、苦しげに唸ってる声……みたい。でもこれ、耳から聞こえてきてるんじゃない。胸の中に直接響いてきてる。
 恐い。なんなの、一体!
 何十、ううん何百かもしれない。ものすごい数の影に取り囲まれて、心臓を押し潰しそうなほどの唸り声に圧迫されて、潰されるのを阻止しようとしてるみたいに心臓がドンドンと鳴ってる。一斉になだれ寄せようと時を計るかのように、私の周りで影達が伸びたり縮んだりしてる。
 いやだ! 助けて!!
 咄嗟に彼の名前を叫びかけて、でも、喉から出てこない。
 そうだ、もう手を伸ばしちゃいけないんだ。
 誰も、助けになんかきてくれない。私なんか――。
 こんなに非現実的な状況なのに、どうしてこんなに現実的なんだろう、私。自分の中から影が生まれてきたみたい。目の前が真っ暗だ。
 恐くて苦しくて悲しくて、目を瞑ることしか出来ないよ。
 これは夢なのかな。だったら全部、私の存在も何もかも夢になっちゃえばいいのに。
 心臓の音さえも閉じ込めてしまえ。
 ぎゅうっと強く目を瞑った。

 私、殺されちゃうのかな――。


「吐普加美依身多女(トホカミエミタメ) 寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリコンダケン) 波羅伊玉意喜餘目出玉(ハライタマイキヨメデタマウ)」


 誰かが、何か唱えるような声がした。
 その途端、ぱあっと辺りに光が迸ったような、そんな感じが瞼の裏に広がる。なに?
 思わず目を開いたら、そしたら、影が無い!
 目の前にあれ程群がってきていた影が、一つ残らず無くなってる!
 なんで? 何が起こったの?
「立てる?」
 すぐ側で響いた声の方に顔を向けたら、そこに居たのは男の子だった。
 多分高校生くらい、だと思う。
 今まで起こっていたことと、今目の前に人が居るっていうことが信じられなくて、ぼうっとしてしまう。もしかしたら、本当に私、夢みてるんじゃないかな。だってよく見たら、この子、そこらじゃちょっとお目にかかれないってくらい、綺麗な顔してるんだもの。
 なんか、ものすごく印象的な子。特に、目が。
 ぼんやりと見上げてたら、その子が手を差し出してきて、私の腕を掴んで立ち上がらせてくれた。でも、踵が何かに挟まってるままだったから、立ち上がった途端にバランスを崩して、その子に倒れ掛かってしまう。
 温かな人間の感触に、一気にこれが現実なんだって我に返ってた。そうよ。影が消えたことで安心しきってたけど、この子だって安全な存在かどうか分からないんじゃない。
 やだ恐い!
 受け止めてくれた胸から慌てて飛びのいたはいいけど、靴が脱げた。でもこの際構ってられない。
 そのまま裸足で後ずさりしてたら、腕が伸びてくる。体ごと心臓が震えた。でもその腕は地面に向かってて、側溝の蓋に開いた穴にめり込んでた私の靴を抜き取ってくれた。
「はい」
 手渡してくれる。
 この子は――大丈夫、なんだろうか。
「あ……ありがとう」
 恐る恐る受け取った靴は、踵がぱっきり折れていた。
 その靴を見て、今まで張り詰めていたものが、ふっと抜けていった。

 ああ、もうサイアク。
 今日はなんて日なんだろう。

 そう思ったら、安堵やら情けなさやら色んなものが込み上げてきて、泣けてきた。
 誕生日だっていうのに彼に振られて、変なものに遭遇して、靴壊れて。
 ぼろぼろ泣き出した私の目の前から、突然男の子は走り去ってしまう。
 そうだよね、関わりたくないよね。こんな最悪いっぱい抱えた女なんて。
 逃げるようにして男の子が居なくなったことで、惨めさが更に増した。涙が溢れて止まらない。
 そうして子供みたいに何度もしゃくりあげてたら、パタパタというアスファルトを駆けてくる足音が聞こえてきた。近づいてくる。
 顔を上げたら、あの男の子が駆け戻ってきてた。
 めんどくさいって、逃げて行っちゃったんじゃなかったんだ。
 羽織ってる黒のシャツの裾が、風にひらひらとはためいて、手にはコンビニの袋を下げてる。
「貸して」
 言うなり、私の手から靴をもぎ取って、足元の縁石に腰掛けた。長い足を組んで、コンビニの袋から何か取り出してる。
 中から出てきたのは、瞬間接着剤。
 丁寧に、靴と踵の間を払って、接着剤を塗ってくれる。
 ちょっとつり上がった切れ長の目とか、細い体から、どことなく冷たい感じがしてたんだけど……優しい子なんだ。
 きっとこの子、学校じゃモテてるんだろうな。サラサラの黒髪。背も高い。
 彼の作業を立ちっぱなしで見下ろしながら、私は頬に残ってた涙を手の甲で拭った。
 なんだか、小学生みたい。恥ずかしくなって、思わず口を開いてた。
「さっきの……あれ。何?」
 今になって冷静に思い返してみると、多分、っていうか、絶対あの影を消してくれたのはこの子だと思う。この子なら、あの影のこと、詳しく説明できるはずだっていう変な確信があった。
「……あれは、人の思念の塊」
「シネンの塊?」
 男の子は頷くと、靴を直しながらぽつりぽつりって感じで話してくれた。
「恨みや妬み、悲嘆や怒りといった人の強い思いっていうのは、とても具現化しやすい。不用意に言葉として吐き出しだりすると、その場に留まったりする。下手をすると、他人に絡みついてとり憑く場合もある。さっきの影は、お姉さんにとり憑こうとしてた。普通は、とり憑かれる側には見えないものなんだけどね」
 そんな話……信じられない――、とは言えない。だって、さっきまで私、思ってたんだもの。
 この街に押し込まれた人達の吐き散らかした思いが、道の隅に積み上げられているような気がするって。
 あちらこちらに、やり場の無い気持ちがゴミや澱みになって溜まってるって。
 それに何よりも、私にはあの影がはっきりと見えた。でも、普通は見えないって――なんで私、見えたんだろう?
 私が疑問に思ったことを察したのか、男の子がちらりと視線を寄越した。
「もし、とり憑かれる側に強い負の力が漲っていたりした場合――それが見える場合も、ある」
 え? 負の力?
 怪訝な顔をしてしまっていたんだろう。男の子がすいと視線を逸らせて、少し言いにくそうに補足してくれた。
「その場に残されて蠢く感情よりも、強い悲嘆や、恨みや、怒りを抱えている人には見えるかもしれない、ということ」
 それは――私が、そうだってこと?
 ううん。きっとそう。
 確かに私、ものすごく強い負の力を抱えてる。
 憎い、悲しい、辛い、嫌い。そんなマイナスばかりな感情が自分の中で渦巻いてるのが分かる。
「だって……どうにもならないんだもの。簡単にすっきりと洗い流せるものなら、流してしまいたいよ。こんな気持ち」
 言葉と一緒に、ぽろりと涙が零れた。
 私の中の、ゴミや澱み。抱え続けていくには、重すぎて苦しすぎて。
 ああ、だからみんな言葉や溜息なんかにして吐き出していくのかな。そういう気持ちの塊。
 でも、全部吐き出し切ることは出来ないと思う。
 重すぎる感情は、心の中にくっきりと深く跡が残る。
「一応、応急処置だけど」
 ぼそりと男の子が言って、靴を差し出してくれた。踵がくっついてる。
 ぽっきりと折れてしまった気持ちも、こんなふうに簡単に治せたらいいのに。
 でも、そんなに簡単にいくわけないよね。
「ありがとう」
 涙を拭った手で受け取って履こうとしたら、何となく言いづらそうにして男の子が繰り返した。
「俺には、完全に治すことなんて出来ない。でも、応急処置ならできる」
「うん? いいよ、これで十分だよ。本当にありがとう」
 律儀な子だなぁ。これで全然構わないのに。
「いや……俺が言ってるのは、靴のことじゃなくて、お姉さんの心のこと」
「え?」
 えっと、どういう意味かな?
 目をぱちぱち瞬いてたら、男の子が左手の人差し指と中指とを、私の額に当ててきた。何っ?! 何なの一体?!
 うろたえる私の目の前で、男の子は目を閉じて少し俯いてる。右の手のひらは立てて、拝むような形で胸の前につけられてる。何かのおまじない?

「ひふみよいむなや こともちろなね しきるゆゐつ わぬそおたわくめか うをえにさりへて のますあせゑほれけ」

 男の子が唱えた途端に、周りにふわっと風が吹き上がった。そして、なぜか私のなかで渦を巻いていた真っ暗な澱みが、ほんの少し払いのけられていったような、そんな気がした。
「あとは、お姉さんが自分で払っていくしかない。外に出したければ出せばいい。さっきの影みたいにその場に残ったら、俺が払ってやるから」
 両手を下ろした男の子が、目を開いて私を見つめてきた。労わるような、眼差し。吸い込まれそうな程、綺麗な闇色をした双眸。
「あなた……一体?」
 この子は一体何者なんだろう? 純粋な疑問が、その時初めて沸き起こった。
「俺は街の掃除屋」
 彼は口の端を上げて、悪戯っぽく笑う。
「吐き捨てられた人の感情は、時の流れから逸れ、その狭間に溜まっていく。それを排除するのが、俺の役割」
 その顔に、影を落として彼は告げる。
「さよなら、お姉さん。気をつけて。暗い思念にとり憑かれないように。そして――とり憑かれた奴らに、ね」
 大通りの方から、派手なクラクションの音が響いてくる。ああ、これは現実、なんだろうか。
「あなた、名前は?」
 囁くように尋ねた声に返ってきたのは、嘘か本当か分からない、からかう響きを帯びた声。
「俺の名は零(ゼロ)」
 明日には、もう忘れている名だよ。
 そんな声が、頭の中で響く。これは夢、時の狭間で見た夢なんだ、って。
「零……。ありがとう」
 例えこれが夢であっても。
 それでも、あなたに会えて良かった。
 良かったって思う。
 噛み締めるようにそう思って、そしたら、自然と笑ってた。私、まだ笑えるよ。そのことが嬉しい。
 大丈夫。私は、影になってはいない。
 そう思ったら、強い気持ちが胸の奥深くから迫り上がってきた。
 私、行かなきゃ。
 零に背を向けて、歩き出す。カツン、カツンとアスファルトを叩く、硬いヒールの音が闇に響いていた。
 世界が闇に包まれていても、それでもその中を歩いていかなきゃならない。
 歩いていけば、いつかは明るい光の下へと出られるから。
「バイバイ」
 別れの言葉と共に零れ落ちた彼の名を――恨みや悲しみや愛しさや、言い表せない程の感情を込めて呼んだ彼の名を、ヒールの下に踏みつけて、歩いていく。すぐ目の前に、光が溢れている。
 ビルの陰から大通りへと、もう一歩踏み出したその時。
 瞬時に世界は、ネオンとヘッドライトが煌々と輝いている、光の渦へと変化した。


*-*-*-*-*-*-*-*-*

 ビルの谷間を抜けて吹き渡ってきた風が、狭い路地の埃を巻き上げて、通り抜けていく。
 その風に黒髪を靡かせ、零は闇を振るわせている足音に耳を傾けていた。
 それは途切れることなく、やがて光の方向へと消え去っていく。
 再び闇が落ち着きを取り戻し、しんと辺りが鎮まったことを見届けると、零は安堵したように吐息を漏らして俯いた。
「間一髪……」
 苦笑しながら呟く。すると、突如彼の背後から声が降ってきた。
「ふーん。お優しいことで」
 途端に渋面を作り、零は振り返った。そこにいたのは、一人の少女。
 癖の無い長い黒髪が腰の下まで流れ、紺色のセーラー服の上をさらさらと滑っている。歳の頃は零と同じ程。大きな瞳に高い鼻筋の、非常に整った顔立ちだ。そして長い黒髪が、それらを更に印象深いものにしていた。
 すらりとした体型に凛とした空気を纏う。誰もが振り返り、美しいと認識するであろう少女は、しかし今、腕を組んだままふわりと空に浮かんでいた。
「永和(とわ)」
 嫌そうに名前を呼び、零は彼女を睨めつけた。
「呼んでないぞ」
「なによ、えっらそうに。零が行くところに、あたしが付いていくのは当然でしょう?! あたしは零の――!」
 ひどく憤慨した、といった調子の永和の勢いを押し留めるように、零は吐息交じりで永和の言葉を請け負った。
「ああ、そうだな。お前は、俺の“式”だからな」
「なによ! そのうんざりしてますって言い方!」
 空に浮いたまま、ぎゃんぎゃんと喚く永和は、黙ってさえいれば万人が認める美少女である。が、その実体は、零が使役する式神の一人だ。霊的存在で、使役する人間の意のままに操られる。しかし、この永和という式神は、己の意志を持って動き回る。零にとってはひどく扱いにくく、そしてひどく人間くさい式神なのであった。
 心の中で永和の上げる盛大な憤懣の声に耳栓をしていた零は、一通りの言葉の嵐が通り過ぎた後、辺りに目をやると呟いた。
「ほんとに危なかったよな。あの姉さん。あれ程の影に憑かれていたら、多分意識のないままに、自分の存在を葬ろうとしていただろうから……」
 零には、先程の彼女の中にはじけそうに溜まり続けていた鬱積が見えた。どこにも吐き出されることなく、吐き出す術も持ってはいないといった、彼女の負の感情。そんなものを抱えたまま、こんな澱んだ空間にいたら、様々な感情に引きずられていく。自らでも、コントロールできないほどに。
 そうして、舵をとれなくなったものが行き着く先は、より深い闇か、自らで砕け散るか。
 あの女性の場合、元々闇には慣れていないようだったから、自らで死を選ぶのが妥当な線だと零には思えた。
「美人には優しいわよね。零は」
 嫌味たらたらに永和が零を見下ろす。
「うるさい」
 ぼそりと答えると、零は深く息を吸った。さあ、お遊びは止めて、仕事にかかろう。


 極めて汚(きたなき)も滞(たまり)無ければ穢(きたなき)とはあらじ 内外(うちと)の玉垣 清淨(きよくきよし)と申す


 紡がれた言葉によって、最後に彼女の口から落とされ、その場に残された彼女の深い思念は祓われ、そして風に洗われていく。
 開かれた時の狭間は閉ざされ、何事もなかったように、夜は更けていった。
Copyright(C)言の葉庭園 All rights reserved
inserted by FC2 system